葉栗小学校西門の左手に銅像が立っています。どのような人物かご存知ですか?明治37年大田島村(現大毛・高田・島村)の村長岩田 誉(いわた ほまれ 1866~1939年)氏です。また、明治39年には佐千原村、大田島村、光明寺村の三村が合併して葉栗村が誕生した時の初代村長です。
同氏は明治33年大字高田の他の2人(岩田 心斉、岩田 儀蔵)と発起人となり、知識技能の進歩を目的に補習教育を行う「高田青年夜学会」を創設。後の他の村々の青年教育に大きな影響を与えました。大田島村の村長になると、同夜学会を「大田島青年会」と改め、葉栗小学校初代校長岩田 儀蔵氏らと夜学を奨励し、自らも教壇に立ちました。対象者は満14歳以上25歳以下の青年で、維持費も多くは村が負担しました。
経済面では、明治38年「葉栗信用購買販売組合」を設立。当時は諸物価の高騰などで多くの農家が生活難にあえいでいました。当初は肥料や日用品数種に販売数量など制限を講ずることもありました。しかし、当時では格段の低金利の7朱(しゅ、年7%)以内で長期無担保の貸付に応じるなど、農家の収益の改善に努めました。よって、産業改良などで人々の収入も増加して、3年後には制限も解けることができました。購買も代金支払いの困難な人に対しては、極めて低金利で延納も認めました。ただ多くの年2回払い(盆暮れ勘定)の人々には、肥料を除く全ての商品を現金売りにして、組合も好成績をあげました。
生活面では、現在のタワー通り高田交差点から東(島村上老光寺)へ向かう道は、当時、通学路なのにあぜ道のような狭い道でした。同氏は児童が安全に通学できるように、自ら地権者を回り協力を得ながら私財を投じて道路の拡幅に尽力しました。
まだまだ、同氏の郷土のリーダーとしての偉業は書き尽くすことはできませんが、身近な先人への感謝と、一人ひとりが小さなことでも世の中に何ができるかを考え行動する社会でありたいものです。
*写真提供=「岩田 誉氏 ひ孫・内藤 育美さん(丹陽町在住)」「葉栗小学校」
*参考書籍=「葉栗村志稿」大正6年初版 国立国会図書館所蔵